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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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中山峠キリシタン塚

                              新潟県:殉教地、キリシタン関連史跡

新潟唯一の殉教地と考えられている場所


新潟では唯一のキリシタン殉教地と考えられている場所。
解説板や殉教碑が建てられ、「キリシタン塚」として整備されています。

「イエズス会年報」によると、1604(慶長9)年、京都の伏見から熱心なキリシタンが来島し、1年半ほど留まって宣教したことと、1619(元和5)年以降に2人の外国人神父が来島したことが記されており、相当数のキリシタンが佐渡の金銀山で働いていました。

1628(寛永5)年頃開通した中山旧道(中山みち)は、相川札ノ辻と相川小路を結び、最盛期には上納金銀や年貢米の運送、江戸から赴任した佐渡奉行らの往復、水替無宿人、国中の商人など様々な人や物資が行き交っていました。峠の周囲に3ヶ所の塚があり、昔から百人塚と呼ばれてきたため、ここがキリシタン殉教地、あるいは殉教者が埋められた地ではないかと言われていますが、発掘調査では何も出てきませんでした。



中山峠キリシタン塚


佐渡の相川は、1603(慶長8)年の佐渡奉行所設置以降、金山の町として繁栄し、そこへ各地からキリシタンが流れてきて働くようになりました。

佐渡における殉教の根拠となる史料は、佐渡奉行所の記録「佐渡国略記」や「佐渡年代記」に見ることができます。

「佐渡国略記」の1637(寛永14)年の記述には、「当丑年、肥前国天草切支丹宗門一乱之節当国ニ茂右宗門之者有之人数百人計於中山ニ死罪、一説ニ慶安三寅年右党之者四拾六人死罪之由」とあり、「佐渡年代記」には「今年肥前國島原の乱に依て彌切支丹嚴禁を被仰出に付佐州をも遂詮議処党類数十人ありしにより中山と云所にて死刑に行ふと云」と書かれています。

島原天草一揆が起こった1637(寛永14)年か、あるいは鎮圧された翌年に大規模なキリシタン処刑が行われたことは事実ですが、その数は「百人計」(百人ばかり)か「数十人」であるか確定できず、処刑地も不明です。また殉教者の名前も一人も分かっていません。

この塚を発見したのは大江雄松という伝道士で、彼は教会の人から中山に殉教者の塚があると聞き、大正時代初めにこれを発見、この地を周辺を含め町から買収し、発掘調査を行いましたが、何も出ませんでした。しかしここを訪れて調査した人が論文を発表し、キリスト教関係者に会うたびに「(ここが)切支丹塚とすれは最も当を得たるもの」と話したため、キリシタン塚として一般に知られるようになりました。

中山みちに面した広場から少し登った丘には、1988年に建てられた立派なキリスト磔刑像があり、顕彰碑が建てられています。キリスト磔刑像の裏側はカトリック墓地となり、墓碑が並んでいます。佐渡で殉教したキリシタンを顕彰する場所と考えるのが適当ですが、殉教地、あるいは殉教者を埋葬した場所の可能性も十分あります。




キリスト磔刑像

解説板

キリシタン殉教顕彰碑

カトリック墓地

解説板

登り口

聖母子像

キリシタン塚



 
現地への行き方
相川から佐和田へ向かう途中、中山トンネルの手前に左へそれる道があり、この道を標識に従って進むと林道となりキリシタン塚へと辿り着きます。入口からキリシタン塚まで約700m。佐和田方向から向かうこともできます。中山旧道(中山みち)の案内板から林道に入り、徒歩で約30分。住所は佐渡市相川下戸村です。



この地図は大体の位置を示すものです。訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

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